お詫びとお断り

2020年春以降、2024年6月現在、新型コロナウィルス感染症下での遠隔介護のため、公演への訪問を控えさせて頂いています。再訪時期は現時点では未定です。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2007年12月20日木曜日

喜多流職分会2007年12月自主公演能第二部

狂言「昆布売」
シテ・山本則秀
アド・山本則俊

狂言「昆布売」は、休憩の後、まだ見所がざわついている中で始まるのだが、かつて拝見した「鎌腹」 同様、あっという間に見所は舞台に集中する。クライマックスは昆布売りの則俊さんが、大名の則秀さんの 太刀と脇差を奪ってしまい、昆布売りの呼び声を様々な節つけで強要する部分にあるのだが、そこに 至るまでの劇的な構成はまさに完璧で、全く揺ぎ無い。
実は私はあらすじも読まずに拝見したので、もっとあっさり落ちが着くものと思っていて、随分と じっくりとした展開だなと思っていたら、遥かに長い話で、その演技上の設計の巧みさに気付いて 思わず唸ってしまった。話の顛末を知らない見所でも、自分が今どのへんに居るかがきちんと 把握できるように演じられているのだが、勿論、これは作品がすっかり文字通り「身について」 いないと不可能な事に違いないと思う。そうであってみれば「完璧」という形容もしたくなるのだ。

昆布を挟んだ棹や太刀、脇差といった小道具の扱いも、これも何時ものことながら些かも疎かに なることない。太刀の持ち方がわからないと言って渋った挙句、奇抜な持ち方をして笑いを誘ったあと、 その割には見事な太刀捌きで大名を脅す落差も、そうした細部への配慮があってこそ効果を 産むのだろうと思う。刻々と移り変わる二人のやりとりの空気の変化は、それぞれが美しい型と して表現される。太刀を持とうにも手が空かないという屁理屈さえ例外ではなく、見所が 滑稽味を感じるのは演技に対してではなく、演技が伝える「内容」そのものなのである。
それは、クライマックスの昆布売りの節付けについてもそうで、昆布売りに相応しからぬ 見事な節付けが行なわれればこそ、見所から自然と笑いが生じてくるのである。 昆布売りと大名のやりとりの間合いも小気味よく、素晴らしい盛り上がりの後急転直下の 幕切れになる。
実に見応えのある充実した上演で、気持ちよく帰路に着くことができた。(2007.12.20)

2007年1月23日火曜日

ハゲマス会「第9回狂言の会」を観て

「粟田口」山本則秀・山本泰太郎・山本則重
「箕被」山本東次郎・山本則孝
小舞「祐善」山本則直
小舞「住吉」山本東次郎
「悪太郎」山本則俊・山本則直・山本則重

麻生文化センターを会場とするハゲマス会主催の大蔵流山本家による狂言の会に足を運ぶのは、第7,8回に続いて3回目。 1月21日の第9回を拝見した。番組は「粟田口」、「箕被」、「悪太郎」に、小舞「祐善」「住吉」という番組。

年に一、二度くらいのペースではあっても、狂言の会も回を重ねてみると多少はそのリズムのようなものに馴染んで 来るのか、今年の番組は、いつものようにボリュームはあったが、何というかリズム良く拝見できたように思える。 あるいは工夫を凝らされているという番組の構成の妙かも知れない。
今回印象的だったのは、狂言三番それぞれの特徴ある終結の雰囲気であった。騒々しい追い込みだけが 狂言の幕切れではない、というのは山本家の狂言を拝見すれば直ちに認識することであるのだが、特に今回の 番組は、狂言の世界の多様性を強く感じさせるものだったと思う。

最初の「粟田口」は、寒々しく、些かグロテスクな感触すらある結末。スラヴ系の作家(カフカとかもそうだ)の 短編にもこうした感じの「後味の悪さ」が残るものがあるような気がする。結局都のすっぱに騙されて、独り残された 大名は、現実をそのまま受け入れなくないかのように、刀の「粟田口」と人間の「粟田口」の間を彷徨い続ける。 だがその彷徨は太郎冠者が己が粟田口であると名乗る男を連れ帰ってきた時にすでに始まっていたのだ。 何となく、おかしいと心のどこかで思いながら、ずるずるとうまい話にのって全てを喪ってしまうという話は決して 絵空事などではなく、しばしばそうしたことを見聞きするものだが、ちょうどそうしたプロセスを見るような話だった。
若手のみによる演奏にも関わらず、骨格がしっかりとして、しかも表現は雄弁な立派な舞台。語りの緊張が 高すぎて、些か流れが一本調子な感じがした部分もあったけれど、型に従った表現の安定感を思えば大した問題ではない。 ちょっとすっぱに大名が丸め込まれ「きってしまった」ような感じはあったが、最初に述べた、結末の雄弁さは圧倒的で、 とても見ごたえがあった。ストレートで踏み込んだ表現(それはいわゆる「独自の解釈」というような、とってつけた ようなものとは違う、もっと無意識なものに思える)によって、狂言の普通に思い浮かべるイメージというか先入観みたいな ものを突き破ってしまって、独自のものに届いている、というように私には感じられた。
一方で、私なぞは大して知ってもいないくせに、ステロタイプな先入観だけはできあがってしまうものだ、ということを認識 されられた面もあるように思う。そういえばこれは「釣狐」を拝見したときにも感じたことだった、、、どういうべきか、 安定感よりも切り込みの緊張感の印象が強く、うかうかと観ていることができない、という感じ。こういう経験は 恐らく若手の演者の舞台によってでなければできないのではないかと思える。何か一人で納得しているだけのような 気もするが、こういうことに思い当たったのは私にとっては得がたい経験だった。これまた「釣狐」のときもそう だったのだが、狂言への接し方の間口が広がったような感じがする。
もう一つ印象に残ったのが、「粟田口」について終演後、東次郎さんがお話になったときに、「名前を呼ぶ」ということに 関して、「翁」の一場面をひかれていたこと。前回拝見した「翁」(東次郎さんが三番三を勤められた)のその場面は、 本当に印象的で感想でも触れずにはいられなかったのだが、その場面を鮮明に思い出した。これも勝手な思い込みかも 知れないが、あんなにも鮮やかに心に刻まれた印象が、演じられている方のお考えとぴったり噛み合ったような感じが して、納得してしまった。

「箕被」はいつものわわしい夫婦喧嘩になるかと思いきや、激することもなく箕を被いて妻は家を出て行こうとするので、 意外な感じに思っていると、歌を詠み交わして、そのまま仲直り、という幕切れ。しっとりとした終わり方は、艶かしさを 感じさせるほどで、雰囲気のある話だった。箕を被いているのが、最後はまるで婚礼のような錯覚を覚えたほど。 パターンだけ見ると似たような構造の話は結構あるように思うが、実際には、パターンが同じ話で内容も同じ、 というのはないのだ、ということが印象づけられる。前の話との対比も鮮やかで、番組の構成にも納得した。

謡と舞の素晴らしい山本家の番組では、小舞はいつも楽しみなのだが、今回も素晴らしかった。今回は特に修羅能の パロディの「祐善」の、素人目にもしっかりとした安定感のある、それでいてどことなく軽みを感じさせる則直さんの 舞や雄弁な謡が醸し出すおかしみと、東次郎さんのゆったりとした、重厚で強い緊張感に貫かれた「住吉」との対照の 妙もあって、気持ちよく拝見できたように思える。

「粟田口」が新鮮さと緊張感によって観客の心を掴んだとすれば、「悪太郎」は、狂言の様式の持つ安定感、特に 山本家の狂言の特徴であるに違いない、息を呑むばかりの型の美しさと、緩急自在の間合いによる音楽的といって良い 話の展開によって、観客の心を喜びで満たしたといえると思う。しかもその感興はある種の確実さの感覚に裏打ちされて いて、その場限りの熱狂とは異なる。それでいて、実演ならではの一回性の冒険が、新しさの経験がある。 感想を書くたびに同じことを書いているような気もするのだが、本当に貴重な経験だと思う。

「悪太郎」の結末は、悪太郎の回心で終わるのだが、その輝かしさは能でいけば五番目ものの感覚に近い、すがすがしい もので、これまた狂言の表現の幅広さを感じた。悪太郎の則俊さん、僧の則重さんのお二人の演技の美しさは比類のないもので、 最初に拝見した「水掛聟」以来、いつもその様式的な美しさに感動してしまうのだが、今回もまた、その美しさを充分に 味わえた。決してばたばたと騒々しくならない、賑やかさは結末の回心に如何にも相応しい。決して短い作品ではないし、 かなりの運動量だと思うが、それでも崩れないのは考えてみれば驚異的なことだ、と後から思うが、その場では 上演のリズムに引き込まれてしまっていて、そうしたことを考えているゆとりはない。
それは則直さんの伯父と悪太郎の則俊さんのやりとりである前半にも言える。ややもすると前半の悪太郎の振る舞いは 粗暴で、場合によっては下卑たものにすらなりかねないところだが、千鳥足で登場する悪太郎のふらつく足すら、 見事に演じきっておられていて、危うさは微塵も感じさせない。やり方によっては悪人正機的な弁証法的コントラストの リアリズム的表現というのもあるのかも知れないが、それは狂言の様式にはなじまないし、それ以上に、 そもそも悪太郎というのは乱暴者で酒飲みではあっても、どこかまっすぐなところがあって、全く救いのない人間として 設定されているのではないだろう。ここで描かれるのはありえそうにない奇跡などではなくて、あるきっかけによって 展開していく心の変容の過程に違いない。それは伯父とのやり取りの端々に感じられることでもある。
悪太郎に伯父が酒をつぐところのやりとりの素晴らしさは、これまたいつものことではあるが、筆舌に尽くせぬ見事さ、 本当に芸術品というべきお二人の間合い。少しずつ科白と所作を変えながら、何度か同じことを繰り返すのだが、 その反復の美しさ。何か表現されたものに感動するのとは別に、その型とリズムに音楽的に感動するという稀有な経験を 再びすることができた。
僧の則重さんの演技は、何というか、体から湧き出てくるような気を感じる、こちらにその力が空気を通して伝わって くるかのような、しなやかで清々しい演技で拝見していて楽しくなってしまう。最近とみに精彩に富んでいて生き生きと しているように感じられたのだが、終演後のお話で、演じるのが楽しく感じられるとの事、納得がいった。

今回は、これまで同様の東次郎さんのお話だけでなく、則俊さんのご挨拶と、則重君、則秀君のお話もあって、 一層盛り上がったと思う。
来年は10回目、区切りということで則俊さんが「花子」を勤められるとのこと。「花子」は多分他流儀のものを 録画か何かで拝見したことがあるような記憶があり、「釣狐」などと並んで、私個人にとってはどちらかというと 苦手意識のある曲であるが、必ずや私の「思い違い」がただされることと思う。是非、拝見したいと思っている。
(2007.1.23,25)