お詫びとお断り

2020年春以降、2024年6月現在、新型コロナウィルス感染症下での遠隔介護のため、公演への訪問を控えさせて頂いています。再訪時期は現時点では未定です。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2006年11月4日土曜日

2006年11月3日山本会別会を観て

「翁」翁:狩野了一・三番三:山本東次郎・千歳:若松隆
「釣狐」山本則秀・山本則重
「呼声」山本東次郎・山本則直・山本則俊
「髭櫓」山本則孝・山本泰太郎・山本凛太郎

山本会別会のご案内をいただいたので、拝見しに国立能楽堂へ。「釣狐」、喜多流の「翁」という披きの大曲に、 「呼声」「髭櫓」という番組。狂言の曲はどれも初めてである。

「翁」は翁の狩野了一さんと、千歳の若松隆さんが披き。本来は三番三も遠藤博義さんが披かれる筈だったのが、 ご病気のため、山本東次郎さんの代演となった。披きのお二方は大変に丁寧に演じられていたように感じられた。 ただし(「披き」についてこうしたことを本来云々するのは筋違いだとは思うが)、「翁」の持つ、見所の体の奥底まで 届き、直接共振を生じさせるようなあの、根源的といいたくなるような律動を感じるまでには至らなかった。恐らくそれは、この後 何度も演じられることによって自然と獲得されていくものなのだろうと思う。東次郎さんの三番三が、そうした律動感を 自然に体現されていたことを思うにつけ、その感を強くする。
東次郎さんの三番三さんは自然で、流麗で、品格のある、素晴らしいもので、如何にこの役を大切になさっているか、 そして同時に如何にこの役を自分のものにされているかを感じずにはいられない、揺ぎ無さを感じさせるものだった。 以前テレビで拝見してとても感動したのだが、今回初めて実演に接し、感動を新たにした。
儀礼性の強い曲だが、途中、千歳と黒式尉のやりとりがある。張り詰めた儀式の間に挟まって気分が 変わる部分で、個人的にとても好きな部分なのだが、東次郎さんと若松さんのやりとりは生き生きとしたもので 理想的なものだったと思う。型を重視する山本家の行き方は、こうした部分でとりわけ精彩を放つように思える。 狂言もまた能舞台で演じられるもので、近代的な演劇ではないし、そうなってしまったら意義が喪われるのだ、 ということを再認識させられた。

「釣狐」は、私にとっては難しい曲である。演者の方にとっての重み、当日までに積まれたであろう修練の厳しさを 仄聞してはいるし、拝見すればそのことははっきりと伝わってくるのだが、曲自体の面白さと、そうした技術的な 見せ場のベクトルが揃っていないような感じがしてならない。とりわけ後場が構成的に冗長な印象は拭えない。
にも関わらず、今回の演奏では後場になっても緊張感が途切れなかったのは素晴らしかった。 最初から狐であることをはっきりと前面に出したやり方は異色で、一見、話の流れからすると無理がありそう なのだが、最後まで拝見してみた印象は必ずしもそうでもないのが面白い。実際、狐が猟師をうまく騙せるか どうかは本質ではないのかも知れない。猟師はどこかでそれが狐であることを知っているに違いないし、 狐が己の本能に負かされてしまうプロセスは、後場では狐の姿で出現することそのもので言い尽くせている。 そのように考えれば、通常は狐の演技のみに関心が集中しがちな曲だが、実は能であればワキの立場にいる 猟師の存在感が作品を支えるのには欠かせないことに自然と思い至る。果たして、今回の則重さんの猟師は、 そうした存在感を示して余りあるもので、ある部分では狐を凌駕せんばかりだったが、そのことが緊張感を 高めるのに大きく寄与していたに違いないと感じられた。

順番が逆になるが、囃方の盤渉楽に続いて演じられた「髭櫓」を先に記すことにする。
話自体は他愛もなくストレートなもので、演じられる筋書きの表面にはさほど屈折があるとは思えない。 あるとしたら、それは手前にあった筈で、ここではいわば物語の結末の部分だけが語られる。
それを一曲に仕立てるために、髭と櫓という小道具と大勢の女衆が登場するのだが、 今回何よりも感心したのは、話を進める謡のうまさである。謡はまさしく修羅能のパロディに なっているのだが、則俊さんを頭とする謡があまりに素晴らしく、内容との落差にほろ苦さを 感ぜずにはいられないのである。凛太郎君の告げ手もしっかりとしていて、やりとりから自ずと 滑稽味が滲み出て来ることになっていたと感じられた。恐らくこの曲は意識的に滑稽味を狙ったら 観賞するに耐えないものになるのではないかと思う。輪郭のしっかりとした演技と謡があって、 滑稽味は自然と滲み出てくるのだし、物語が孕んでいる屈折も余韻として感じられるのではないかと いう印象を抱いた。

この会は何といっても披きが中心で、若手の活躍する会ではあるのだけれど、私にとっては結局のところ 東次郎さん、則直さん、則俊さんの「呼声」を拝見できたのが、最大の喜びだった。 他の演目も素晴らしかったけれど、個人的には仮に「呼声」一番だけであっても十二分に満足しただろうと 思えるほどだった。
話はこれまた単純で、無断欠勤の太郎冠者の様子をうかがいに次郎冠者と主が訪れ、色々な節をつけて 太郎冠者を呼び出すというそれだけである。だんだんと呼び出す二人の興が乗ってくるのにつれて、 居留守をつかっているはずの太郎冠者もつられてしまい、最後は鉢合わせになって追い込みという、 典型的な筋書きなのだが、これが、筆舌に尽くせないほどの面白さなのだ。
謡のうまさ、絶妙の間合いで進められる対話、繰り返すうちに盛り上がり、テンポが上がって、その頂点で あっけなく幕切れが訪れる、その構成感の素晴らしさは、まるで音楽を聴いているかのような錯覚を覚えるほどだった。 面白いといえば勿論面白いのだが、それ以上に磨き上げられた美しさが感じられる。15分ほどの小品だけれども まるで魔法にかけられたような魅惑の時間を経験できて心が洗われたように感じた。

休憩を含めて4時間だったが、いつものように、とても充実した時間を過ごすことができ、演者の方々には 感謝したい気持ちである。多忙のために、感想を書くのが遅くなってしまったが、その間に則直さんの 紫綬褒章ご受賞の報が届いた。心からお祝い申し上げるとともに、これからも山本家の狂言を拝見していきたいと思う。 (2006.11.4)


2006年1月31日火曜日

ハゲマス会「第8回狂言の会」を観て

「柿山伏」山本東次郎・山本則俊
「那須」山本則俊
「木六駄」山本則俊・山本東次郎・山本則直・山本泰太郎
小舞「暁の明星」山本則直
小舞「蛸」山本東次郎
「六地蔵」山本則重・山本則秀・山本則孝・遠藤博義

麻生文化センターを会場とするハゲマス会主催の大蔵流山本家による狂言の会は、第7回を一昨年拝見している。 1月29日の第8回の番組にお誘いを受けて出かけた。番組は「柿山伏」、「那須」、「木六駄」、「六地蔵」に、小舞二曲と いう盛りだくさんなもの。

「柿山伏」は一見、物まねの演技を見せるという他愛のない話だが、拝見していて興味深いのは、柿を山伏に 盗み食いされているのを見つけた持ち主の心の方だ。山伏をからかった挙句、木から落ちた山伏を見て 気が済んだのか、いい気なもので介抱を強要する山伏を相手にせずに、そのまま帰ってしまおうとする。 山伏が祈ると、祈りが効いたのか、引き戻され、仕方なく介抱をしてやろうと言うものの、やはり心変わりして、 もう一度、今度は背負った自分の背中から山伏を落として帰ってゆく。
色々な読み方ができそうだが、引き戻されるところは、素直に祈りが効いたように見えた。勿論、 心のどこかに「介抱してやってもいいかな」という気持ちがあればこそ祈りが効いた、で良いように思える。 引き戻されるところの山本則俊さんの演技の見事さは、いつもながら本当に感嘆してしまう。 そして、その型の美しさがあればこそ、こころもちの移り変わりの一瞬の表出が一層鮮やかに感じられるのだと思う。 東次郎さんの山伏の、気まずさと開き直りの対比も見事だと感じた。

「那須」は本来ワキの僧の求めに応じて浦人が仕方話に語って聞かせるという趣向なのだが、そこの部分は 略して直接話を始めたこともあり、あまりの迫真の演技にそうした背景はどこかに飛んでしまった。 登場人物の語り分けと、情景の描写とをやっていくのだが、ちょっとすると落ち着かなく、ばたばたしそうな ところも、そうしたところは微塵も無い。(以前、他の演者のアイでそういう感じをもってがっかりしたことがある。 与一も、義経も若いのだけれども、だからといって売り出し中の若手がやればいい、というものでも ないのだな、と感じたものだ。)とりわけ印象的なのは、与一が馬に乗り、海に乗り入れていく部分から、 矢を放つまで。馬が海に足を踏み入れ、腹まで水につかる様子、風が強く、波に揺られて小舟もろとも 扇の的が揺れる様子、祈る与一。素晴らしい緊張感で、この語りが特別扱いされるのがようやくわかったように 思えた。

だが今回もっとも印象に残ったのは、やはり「木六駄」だろうか。最も印象的なのは、大雪の中、牛を追って 峠の茶屋に着いた場面だった。外の雪の激しさ、寒さの厳しさ、そして孤独と、それらに対する茶屋の中のぬくもり、 そして茶屋の主人との会話の間のコントラストの大きさである。それが頂点に達するのは、「あなたが行き倒れたら お酒が残っても仕方ない、だから飲めばいいではないか」という茶屋の主人の言葉を太郎冠者が聞いた 瞬間だろう。この瞬間の則俊さんの太郎冠者がとにかく素晴らしかった。或る種の臨界というべきか、その瞬間に 何かがどっと堰をきったように太郎冠者のこころもちに質的な変化が起きたのが手にとるようにわかったのである。 大げさな言い方かも知れないが、こういう瞬間に立ち会えることこそ観客にとっては何よりの得難い経験だと思う。 そして、諸白を飲むときのおいしそうな様子、手足に温もりが戻ってくる様子、太郎冠者のこころとからだの内側で 起きていることが、そのまま我がことのように感じられる、実に感動的なひとときだった。もともと酔っているだけなら 外でだって酔っていたわけだから、この変化は酔いによるものではない、少なくとも、山本家の台本はそのような主張を 持っているように感じられる。太郎冠者のこころを溶かしたもの、度を越した大盤振る舞いに及んでしまった原因は、 単なる酒の飲みすぎではないに違いないのである。
東次郎さんの茶屋の主人は、則俊さんの太郎冠者がどんどん酔っていくのに調子を合わせている割には どこか冷静で、何となく、もともと太郎冠者を騙すつもりでいたのでは、もしかしたら、酒の用意はなく 茶しか出せないというところから、既にそのつもりではなかったのか、というようにも感じられた。伯父を 迎えたあと、雪の中から木六駄とともに現れた太郎冠者を見て、ぴんと来たのではないだろうか。 ここも色々ととりようはあるのだろうが、そういう想像をさせるところが東次郎さんの演技の巧みさなのに違いない。
この曲は一度拝見したかった曲なのだが、予想に違わぬ面白さで大変に満足できた。

小舞では「暁の明星」の艶っぽさも印象的だったが、特に「蛸」が面白かった。修羅能のパロディということだが、 この曲の場合にはもとの能が廃曲になっているのでパロディを直接楽しむことはできない。 だが拝見して、蛸をシテにもってくる狂言のセンスというか、知性に感心してしまった。 こうなると是非、「通円」を拝見したくなってしまう。是非取り上げていただきたいと願っている。

最後の「六地蔵」は初めて拝見したが、これはこちらは不思議と何度も拝見している「仏師」と同工異曲であるようだ。 山本家の若手の方は型も言葉もきちんとした様式感があって、拝見していて気持ち良い。特に見事だと感じたのは、 則重さんのすっぱが六地蔵についての説明や分業システムについて滔々と語るところ。ここが生き生きとしていればこそ、 田舎者も騙されるのである。最後の部分も決してただのドタバタにならず、滑稽さが舞台の品を損なうことないのは見事で、 改めて山本家の狂言の手応えの確かさのようなものを感じた。この感覚があればこそ「狂言」を拝見していると感じられるのであって、 これがなければ単に歴史的な台本に基づく滑稽な演劇になってしまうに違いない。

最後に東次郎さんのお話がついて3時間弱、とても充実した時間を過ごすことができた。うかがうところによれば、 次回はまた来年催されるとのこと、是非、また足を運びたいと思う。
(2006.1.31)