お詫びとお断り

2020年春以降、2024年6月現在、新型コロナウィルス感染症下での遠隔介護のため、公演への訪問を控えさせて頂いています。再訪時期は現時点では未定です。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2016年9月18日日曜日

「第11回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成28年9月3日)

「鐘の音」
シテ・山本則俊
アド・山本秦太郎
アド・山本則重


毎年春に開催される「香川靖嗣の會」が今年は秋にも催されるということで目黒の舞台を訪れた。 能の演目は「遊行柳」、前に狂言「鐘の音」が演じられたが、こちらもまた川崎の「佐渡狐」に続けて 山本則俊さんの圧巻の舞台が拝見できたので、以下に感想を記しておきたい。

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実は「鐘の音」については今年の年初、久しぶりに拝見することが叶ったハゲマス会主催の「狂言の会」にて、 まさに至芸と言うほかない、則俊さんの素晴らしい舞台に圧倒されていて、今回は二度目となる。 以前も「鎌腹」で、やはり狂言の会と能の会で続けて接する機会があり、この時も圧巻であったのだが、 「鐘の音」についても同様の幸運に巡り合せることとなった。

「狂言の会」ではアドの主が則秀君、隣人が若松さんであったのが、今回はそれぞれ秦太郎さん、則重君という 配役、主に鎌倉で「付け金の値」を聞いてくるように命じられたのを、則俊さんの太郎冠者が「撞き鐘の音」と聞き違えて、不審に思いつつも鎌倉中を巡って、最後に建長寺に到るまで、幾つかの鐘を聞いて回るのが前半、その後主のもとの戻ってからの顛末が後半という筋書きの話で、隣人は後半、聞き違いによる 失態を犯した太郎冠者と主の間に入って仲裁をする役どころである。

順番は逆になるが、この則重君の演技が素晴らしく、聞き違いが原因で生じた緊張を鮮やかに解決し、 最後は太郎冠者の舞による祝言で終わる作品における転回点を見事に捉え、転調をもたらしたその演技には 風格さえ漂ってきているように感じられた。

前半は実質的には則俊さんの一人舞台。訪れた寺の描写と鐘の音の表現の演じ分けが圧巻であるのは 前回と同じ。今回は最初の解説で金子さんが鐘の音の擬音語について特に言及されていたが、 撞木が括りつけられて撞けない鐘を石を投げて鳴らしたり、寺僧が撞く鐘を聞いてみたりといった 変化を、何もない舞台で、小道具もなしに、完璧な間合いと詞の調子だけで演じ分けて行くのは、 圧巻の一語に尽きる。前回は初めてということで次々と繰り出される変奏に驚いていたのに対して、 今回は筋書きは既に知っている。だが寧ろ、それゆえに一層、その凄みは感じ取れる。 とりわけても今回は能の会だからということもあってか、演技を支える緊張感が一層高いように感じられ、 その気魄に圧倒されることしきりであった。そうした高い緊張感があって初めて、緩急の自在さによって、 ある瞬間には、ふと抜けた、とぼけた味わいで笑いを誘うこともまた、可能になるに違いないのだ。
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だがこの日の圧巻は、末尾におかれた則俊さんの祝言の舞であった。これもまた金子さんのお話の中に 言葉の取り違いを素材とした作品はあるけれど、これ程のものは見当たらないといった言葉があったが、 舞台に接して見ると、言葉の取り違えが惹き起こすハプニングを素材としつつ、そうした取り違えさえもが、 結局は祝言に繋がるという筋書きを通し、狂言という様式そのものの在り方が、つまり、 ちょっとした取り違えや行き違いが惹き起こす、客観的には滑稽でさえある状況を通して、 そういう仕方でしか浮かび上がってこない或る種の真理のようなものを控えめに指し示すという 在り方が、この上ない説得力を持って感じ取れたように思えるのである。狂言の作品には、 もっと物語的な幕切れを持つものも多くあるけれど、それらもまた、暗黙の裡に略されてはいても、 本当はこの作品のように、祝言が付けられているのではないかというように感じられたのである。

そしてまた更に、これは些か突飛な連想になるが、それに関連して思い当たったのは禅の公案の ことであり、或はまた、経典や公案の定まった解釈をあえて揺すぶることで自分が見出したものを 伝えようとする「正法眼蔵」の道元におけるような言葉に対する姿勢であった。勿論、 これは実証的な関係についての話ではないのだが、裂帛の気と自在さとを合わせ持ったこの日の 則俊さんの芸境に接して、どこかで禅の世界に通じるものがあるのではないかという印象を 強く抱いたのである。(2016.9.18公開)

「第108回川崎市定期能」(川崎能楽堂・平成28年8月6日)

狂言「佐渡狐」
シテ・山本則俊
アド・山本則秀
アド・山本凛太郎


川崎能楽堂を訪れるのは1年ぶり。今回同様、前回も喜多流の香川靖嗣さんの演能との組み合わせで 「口真似」を拝見したが、今回は「佐渡狐」。「佐渡狐」については山本家の方々の演じた素晴らしい 舞台を何度か拝見しているが、今回は奏者の則俊さんに若手が越後と佐渡の百姓を演じる配役。 どんな舞台になるかと楽しみにしつつ足を運んだが、期待通りの揺ぎ無い様式の美しさの中に、 則俊さんの、最早名人芸と呼ぶほかない円熟の芸と瑞々しく快い緊張感の中を自由闊達に役を演じる 則秀君、凛太郎君の演技が絶妙のバランスを保つ素晴らしい舞台であった。

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前半は若手2人演じる佐渡と越後の百姓のやりとりで話が進んでいく。山本家の狂言の持つ 繰り返しと対称性の美しさは勿論だが、同時に2人の性格付けには微妙なずれが仕組まれていて、 最初は仲良く話していたのが、ふとしたはずみで自尊心に捉われて思わず嘘をついてしまうと、 奏者を巻き込んでまでそれを通そうとする佐渡の百姓に対して、こちらも悪意はないのだが、 相手がそうならとこちらも思わず張り合ってしまって一旦は脇差を奪われてしまう越後の百姓の それぞれの性格づけの対比も、則秀君と凛太郎君の配役のバランスの良さもあって、 巧まずして鮮明に描き出されていたように思われる。

だが、演技の様式的な要は、物語の筋書きからすれば脇役と取られかねない奏者なのであって、 奏者の前に2人が出ることによって、それまでは不在の中心を巡ってバランスが保たれていたのが、 確固たる中心を軸にした配置に変化する。 この作品の構造上のピーク、折り返し点は、佐渡の百姓が奏者に袖の下を渡すところであろう。 此処はいわゆる「笑いを取る」という点でも頂点なのだが、確実に見所を心を捉えつつ、 後半へと場面を折り返す則俊さんの演技は、息を呑むほどの見事さ。則俊さんの奏者は、 人によっては「はまり役」という形容をしたくなるであろう程に素晴らしく、何度拝見しても 飽きることがないが、特に今回は飄々としていながらも、一点たりとも揺るがせにしない その磐石の演技によって、上演に一本芯が通っているのだということを認識させられた。

後半は一転して、狐のなり格好に関する滑稽な問答を軸に一気に進んでいく。ここでも 越後の百姓の問いに対して、事前の入れ知恵の甲斐なくおろおろする佐渡の百姓に対して、 最初は無言で所作をもってヒントを出し、最後には囁いて答を教える奏者が中心となって 生み出されるリズム感が素晴らしい。意外の決着に一旦は落胆して脇差を奪われてしまう 越後の百姓が、奏者が去って再び2人だけの舞台になってから、最後に謀って狐の鳴き声を 問うことで急転直下、脇差を取り返して足早に舞台を去っていく転換の鮮やかさもまた、 あたかも意外な調性に転調したまま終わるかに見えた音楽が、急転直下、最初の調に戻って 終結するのを聞くような音楽的な快さで、若手2人の芸の進境を感じずにはいられなかった。

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いつもながら、山本家の狂言特有の、様式化された所作や詞の繰り返しのリズムの美しさ、快さ、 鋭く人情の機微や心理の綾を抉り出しつつも、祝言としての性格を決して喪わなず、晴朗な均整感によって 見所の心を満たす演技に接して、心洗われる思いがする。残念ながら多くても年に数度という頻度では あるけれど、10年以上の長きに亘り続けて拝見させて頂いて、芸が世代間を引き継がれていくプロセスに 立ち会うことができるのも、思えば貴重な事であろう。何しろそうやって、私個人の寿命よりも遥かに 長く受け継がれて来たし、これからも受け継がれていくであろう、その一端に触れることが出来て いるのだから。今回はとりわけても、これからも機会があればその舞台に接して行きたいという気持を 新たにした上演であったと思う。(2016.9.18公開)